ミスタイム@フィンランド映画祭 2021 201/11/13

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11/13~19までユーロスペースで開催されているフィンランド映画祭2021で上映。

この映画の監督・エリナが引っ越した先には前の住人(シルッカ・リイサ)が残した多量のモノというか、思い出と生活の跡が残されたままになっていた。この前居住者である故人の思い出と生活をそのまま捨てることができなくなった彼女は故人がいかなる人であったのかを探ることにした…という映画である。

2021年フィンランド・アカデミー賞(Jussi賞)の最優秀ドキュメンタリ一作品賞を獲得したことからフィンランド映画を日本に紹介するフィンランド映画祭で上映されることとなったのだろう。時間は61分と尺が短いので通常の劇場上映は難しいと思われるため、今回の上映を逃すと今後日本では観るのは難しいかもしれない。(どこかの配信プラットフォームに載るかもしれないが…)

Neiti Aika (Lady Time) -Trailer

紹介文を読んだ感じだと、監督自身が前居住者の知り合いを訪ね歩いたりして調査を行い、彼女の人生を紐解いていくような感じの映像になるのかと思っていたら、そうではなかった。残された写真と手紙の朗読、8mmの動画やさまざまな遺品を使って、ほぼ時系列に従い彼女と彼女の家族の人生を淡々と紹介していく。そして、夫も姉妹もいた彼女の生活の跡が何故アパートに残されてしまったのかも明らかになっていく。

こんな無名な女性の人生をドキュメンタリーにするなど、これまで観たことがない。 ドキュメンタリーではないが、アネサ・フランクリンの半生を劇映画にした「リスペクト」など、有名人の人生を追う作品は多くあり、作家の私小説や自伝が原作となっている映画(最近だと「ビルド・ア・ガール」)や監督の自伝的映画(「レディ・バード」とか)も数多くある。自分の先祖100年分を題材にする「ハイゼ家 百年」もスケールの大きい自伝のようなものと言えるだろう。しかし、監督の身内でもなんでもない女性の半生を読み解き、それを引き継いでいくことになるのは、なかなか面白い流れで興味深い。

11/13のティーチインで監督が話していたが、調査については相当時間がかかったようだ。しかし、先にも書いたが作品内ではそこに触れていない。「誰がハマーショルドを殺したか」のように調査風景をシーンに入れ込むことをせずに、写真や残したモノを用いてシルッカ・リイサ自身を極力表現しようとする姿勢が、この作品の温かさにつながっていると感じて好感が持てた。

また「引越先に荷物があるっておかしくないか?たとえ前住人に身内がいなくとも不動産屋や行政が片付けるのでは?」という素朴な疑問にも、監督はティーチインでは答えてくれた。引越先の物件は人気があり買いたい人が多かったので、残された物の処理を行うことも条件で買えたのだと。この話はシルッカ・リイサの人生とはあまり関係がないが、映画で説明してくれた方がモヤモヤが晴れて映画を観ることを集中できたと思われるので、映画内に入れても良かったのではと感じた。まあ国内の場合は「人気物件をそういう方法で手に入れたのか」と下世話な要素になってしまいかねないので、入れなかったのかもしれないけども。

原題『Neiti Aika』をGoogle先生に聞くと、この映画の紹介とともに「Speaking clock」と出てくる。Speaking clock とは「人の声で時刻を教えてくれるサービス。通常は電話でアクセスする。」つまり「時報」のことである。しかし、邦題は「ミスタイム」、英題は「Lady Time」。ますます謎である。

「Neiti」は英語の未婚女性につける敬称「Miss」に当たるフィンランド語で、「Aika」は「Time」つまり時間である。直訳すると”Neiti Aika” = “Miss time” なのだ。Wikipedia(英語版)によるとフィンランドでは時報サービスのことを「Neiti Aika」というので、検索結果に 「Speaking clock」と出てくる 。経緯は不明だが、女性の声で時刻を伝えていたので “Neiti Aika” と命名したか、勝手に呼ばれるようになったのだろう。ハンカチ王子のように。シルッカ・リイサの遺品は『彼女の時』をエリサに伝え、遺品の中にある時計は彼女が亡くなっても時を刻み続ける。それらがまるで時報のようであることを表すのにも『Neiti Aika』は最適だったのだろう。

そして英語タイトルの「Lady Time」だが、Missは未婚女性を表すため女性差別であると敬遠されたのではないだろうか。だからといってMsを使うのも現代的すぎるという判断で、古典的かつ厳粛な響きのある『Lady』が使われたと感じる。日本語で直訳すると『時間女史』のような感じで。

ではなぜ邦題は「ミスタイム」なのか? 『Neiti Aika』 の読みをカタカナ書きして「ネイティアイカ」とすると日本人には意味が全くわからない。英題の読み「レディタイム」でも良かったのだろうが、それによって失ってしまう要素に気づいたからかもしれない。それは先に紹介した「時報」との共通性もあるが、それ以外にも「Neiti」に含まれる意味と考えられる。「Neiti」も「Miss」と同じように「逃す・失う」と意味がある。彼女の生きた証であるモノ達を捨てることで「ある女性の生きた時間を失う」ことにも言及したかったので邦題では「ミスタイム( Miss Time)」としたのではないだろうか?ただ単にGoogle翻訳先生に「Neiti Aika」と聞くと「ミスタイム」と返ってくるからってことだけでないだろう。

Webで配布されているフィンランド映画祭2021のPDFパンフは文字情報が埋め込まれてないので、下に共有しておく。

ミスタイム
Neiti Aika / Lady Time
ドキュメンタリー
2021年フィンランド・アカデミー貰(Jussi賞)最優秀ドキュメンタリ一作品賞
61分/2019年/カラー/デジタル上映
監督:工リナ・タルベンサーリ
脚本:エリナ・タルベンサーリ
ナレーター:イ口ナ・プッキラ
撮影:ヨーナス・プルッカネン
音楽:トンミ・マキ
製作国:フィンランド
言語:フィンランド語
かつての住人はいったい誰?
監督が主人公の異色ドキュメンタリー
その女性は1952年のへルシンキオリンピックの後、真新しいアパートに引っ越してきた。2012年のある日、彼女は入院し、そのまま二度と戻ってこなかった。彼女には家族がいなかった。数ヶ月後工リナはたまたまこのアパートを買う。彼女はいなくなったが、彼女の個人的な歴史はすべて居間に残されていた。これらの思い出をすべて捨ててしまったらどうなるのだろうか。
忘却の恐怖にも似た感覚が工リナを駆り立て、女性が誰であるかを突き止めようとする・・・。人生に意昧を与えるものは何か?そして人の死後、その意昧はどうなるのか?監督自身の新しい家の前の居住者を探る異色のドキュメンタリ一作品。
工リナ・タルベンサーリ(1978年生まれ)は、へルシンキ出身の人類学者から映画製作者に転向した人物。発表した作品は海外の映画祭での受賞歴も数多く、本作は本年度フィンランドアカデミー賞において、最優秀ドキュメンタリ一作品賞に輝いた。

フィンランド映画祭2021(PDF)

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